H25.12.21 Patagonian Orchestraの新曲に寄せて

空に浮かぶ星が消えて 夜が終わる頃
空っぽの部屋に街の音 響き渡る

思い出せない約束と たくさんの嘘が
静かな街のこの道を 通り抜ける

僕ら旅の途中 あの日のドアは開けたまま
春の匂いがして 新しい朝に包まれる

空に浮かぶ星が消えて 雨の音がして
空っぽの部屋を出て行こう 夜が終わる頃に

僕ら夢の途中 あの日のドアは開いたまま
夏の雨がほら こっちを向いて笑っている

僕ら夢の途中 あの日のドアは開いたまま
冬の風がまた 僕らの日々を運んでゆく

春が来ればほら 新しい花がまた開いて
君を迎えに行こう 空っぽの部屋に

「空っぽの部屋のドアは開いたまま」


 映画やドラマを見ていると、空っぽの部屋が映されることがある。
 小津安二郎の映画なら、結婚して家を出た娘が昨日まで過ごした部屋。
 サスペンスドラマなら、殺された主のいなくなった部屋。
 そんな光景を目にすると、よく知っている場所に「わたしのいないとき」を想像してしまうことがある。
 よく知っているあの人の「わたしといないとき」のことを考えてしまうこともある。
 そういうふうに改めて書くと、センチメンタルに聞こえなくもないけれど、こういう心の働きは自然なことなんじゃないかと思う。
 恋人や家族なんて、いつも一緒にいると思っているけれど、当然それぞれの生活があるし、自分の部屋もわたしが出かければ空っぽになる。わたしがいないときに、その人たちは当然、わたしのことを考えていないし、わたしの部屋に感情があるわけではない。
 誰かがかつていた場所をわざわざ映像で見せるとき、そのカメラは誰の視点だろうか。オカルトやファンタジーならいざ知らず、その部屋に誰かがいるショットがなければ、それはカメラの視点、言い換えれば「神」の視点だけれど、観ているわたしたちにとってそれはとりあえず、画面のこちら側にいるわたしたちの視点だ。

空に浮かぶ星が消えて 夜が終わる頃
空っぽの部屋に街の音 響き渡る

思い出せない約束と たくさんの嘘が
静かな街のこの道を 通り抜ける

 パタゴニアン・オーケストラの新曲はこんなふうに始まる。映画におけるカメラの移動みたいに、空から部屋に視点が移動しつつ、映画では決して聞こえない(聞かせない)ような、街の音が空っぽの部屋に響き渡り、約束や嘘といった形ならざるものが、さらに視点が移動して街のなかを通り抜ける。
 これは映画やドラマのような視点なのではなくて、わたしたちがいつも「見ている」風景なのではないか。空っぽの部屋をわたしたちが画面の向こうに見るときに、わたしたちは「かつてそこにあったもの」の面影を見ている。
 わたしたちとは違う肉体を持った登場人物が物語を演じているのを見ているとき以上に、空っぽの部屋を見ているわたしたちは画面の向こうの世界に感情移入できる。この歌のことばは、そのことをよく知っている。

僕ら旅の途中 あの日のドアは開けたまま
春の匂いがして 新しい朝に包まれる

 空っぽの部屋のドアは開いている。春の匂いがするというが、部屋は空っぽなのだから、それを嗅ぐものはいないはずじゃないか。だから歌は「僕ら」と歌われるのだ。この歌の主体は作詞者とか、歌い手とか、歌の主人公とか、誰か一人なのではなくて、たとえば映画やドラマを画面のこちら側から見ているわたしたちなのだと思う。
 この歌の作り手は、「自分の知らないこと、経験していない歌詞は書けない」と言っている。わたしたちの大半は、画面のこちら側から映画やドラマを見ている。わたしたち一人ひとりにとって、わたしたちの人生はわたしたち一人ひとりが主人公のドラマなのだ、という言い方はできないわけではないけれど、誰もがよく知っているように、わたしたちの人生は、たとえどんなリアルなものであっても、映画やドラマの主人公の人生とは違うものだ。

空に浮かぶ星が消えて 雨の音がして
空っぽの部屋を出て行こう 夜が終わる頃に

「空っぽの部屋を出て行こう」と歌うこの歌は、そのことを静かに肯定している、とわたしには思える。繰り返すけれど、空っぽの部屋には誰もいない。出て行くのは主人公じゃなくて、それを見ているわたしたちだ。いい映画を見終わって映画館を出て街を歩くときの、あの心地よさをこの歌に感じるのは、そのためだと思う。3分あまりの短い歌のなかで春から夏になり冬が来てまた春が来るように、わたしたちの季節も巡る。

僕ら夢の途中 あの日のドアは開いたまま
夏の雨がほら こっちを向いて笑っている

僕ら夢の途中 あの日のドアは開いたまま
冬の風がまた 僕らの日々を運んでゆく

春が来ればほら 新しい花がまた開いて
君を迎えに行こう 空っぽの部屋に

※歌詞はわたしの聞き起こしです。