ヴィユー・ファルカ・トゥーレ。

 フィリップ・K・ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』がとても面白かったので、次は糸井重里『私は嘘が嫌いだ』を読むことにした。順接には意味はありません。次は小説を読むよりよくわからない本を読む方がいいような気がしたから。
 これは1982年、すなわち糸井さん34歳頃の本。雑誌連載はもっと前か。少し前に、わたしたちが家族でよく行くカフェの店主・Sさんに『話せばわかるか』という、たぶん『わたしは嘘が嫌いだ』よりも前に出ている糸井重里の対談集を貸して(わたしは読んでいない)、『嘘』の方も気になっていたといこうこともある。
 とはいえわたしは糸井重里のファンというわけでもなく、著作や『ほぼ日』の熱心な読者でもないのです。
 わたしのいま読んでいる『嘘』は93年に出たちくま文庫版で、巻末の川勝正幸による解説に
「願わくば、この本が筋のいい若い人たちの目にたくさん触れますことを! ロック史の流れと無縁の視点で『461オーシャン・ブールヴァード』と出会って新しい音楽に再生した若い人達(例:小沢健二君)がいるように、『私は嘘が嫌いだ』をリアル・タイムで読んだ人間とは違う読み方がいっぱいされると面白いと思う。」
 とある。
 で、読んでなかったはずのこの本の、78ページに付箋が挟んである。たぶん自分で貼ったものだと思う。おそらくこういう文章が気に入ったのだと思う。
「私は、好き嫌いの判断が実に下手なのだ。
 好きのようでもあり、嫌いなこともある。そればっかり、なのである。
 好き嫌いよりも、善い悪いのほうが、私にはよほど簡単である。他人が何と言おうと善い、と押し通すことも、けっこうできそうだ。しかし、好き嫌いに関しては、自信がない。好きみたいだなぁと思っていても、信頼できる友人なぞが「嫌い」と言えば、すぐさま、あ、そうか、と思ってしまいそうである。」
 わたしもそう思うということではないですよ(そうじゃないということでもないのですが)。そういうセンで本を読む人は最悪だと思います。そんなヤツは死んでしまえ。

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