アングルの『泉』『グランド・オダリスク』。

 わたしが「萌え」ということばを知ったのは96年ごろで高校3年生だった。それがしっくり来たのはわたしにもマンガやアニメなどの二次元(の女性)への感情移入が違和感なく可能だったからだがもっといえば写真のなかのそれ一枚の静止画のなかの女性がとても好きだ。見ず知らずのブロガーの写真に写っている女性とか、最近の具体的な例でいうと雑誌『ブルータス』の2011.1.1/15号「本。」特集のなかの、TSUTAYAの書店員の女性。というよりその写真。映画のなかの特定のショットのなかの女性(の動画)というのもそれに近いかも知れない。なぜ好きなのか、あまり考えたことはないがたんじゅんに思いつくのはこちらを見続けているまなざしだろう。それは古くから肖像画にもあったものだけど、写真であることによってまなざす人の実在性がより担保される。しかし本当にそのことがいいのだろうか。アニメ的「萌え」の本質は記号性で、絵に描いたキャラクターの同一性が担保されるのは記号性による。ショット、シーンの連続でキャラクターの同一性が担保されることでキャラクターに命が吹き込まれ、わたしたちは二次元のキャラクターに「萌え」ることができる。だとしたら特定の写真の人物(しかもわたしはその人のほかの姿、すなわちほかの写真、映像、実在のその人を知らない)を好きになるということは、一種のネクロフィリア(死体愛好)ではあるまいか?