「ネコのちょいと兄貴だよ。」

 バスを待っているとき/ぼくには本はいらない/君がいるから

 バスを待っているとき/ぼくにはウォークマンはいらない/君がいるから

 バスを待っているとき/ぼくには新聞はいらない/君がいるから

 バスを待っているとき/ぼくには何もいらない/君がいるから

 バスを待っているとき/ぼくはいらいらなんてしない/君がいるから

 バスを待っているとき/ぼくはいらいらなんてしない/君がいらいらしはじめるまで

 他の人は本を読んだり/ウォークマンを聞いたり/新聞を読んだり/よそ見をしたり/いらいらして何度も時計を見たり

 バスはなかなか来ない/たぶん行ったばかりだったんだ/君は最近読んだ本の話をしてくれる/アクシデンタル・ツーリストという題だ/その話をぼくは耳で聞く/ぼくにとって君は/世界中の興味深い物語の作者のようなもの/日暮れのセントラルパーク・ウエストでバスを待っている/そのほんの二十分くらいのあいだ


友部正人「アクシデンタル・ツーリスト」

 さっき「天然コケッコー」を見終わったいまの気分、エンドロールで流れるくるりの「言葉はさんかく こころは四角」を聴いたいまの気分でこの詩を書き写したくなって、でも、日記に書きたいことを忘れないうちに書こうと思ったから、詩の引用はいちばん最後にやったから、もし日記を書き始めるまえに書き写していたら、また違った日記になったと思うけれど、そんなことは読むほかの人にはあんまり関係がない。
 早めに帰ってきてちょっと買い物の用事があったから、料理がまだだった妻に「今日はもう外に行こうよ」と誘って外に食べに行くことにした。妻はだいぶ渋ったけれど、いざ出てみると折り込みチラシに入っていたいろいろな店のクーポンを持っていた。スーパーで買い物を済ませてマクドナルドを買って帰り、食べてもまだ七時台だったから、DVDで「天然コケッコー」を見ることにした。ずいぶん前にレンタルして、コピーして、そのままだったもの。
 スーパーでは催事コーナーでCDの販売があり、「志ん生十八番集5」を買う。大好きな「粗忽長屋」が入っている(落語のことは、くわしくないですが)。
 「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろうなぁ?」
 土日から携帯でミクシイをやらないことに決めたから、なかなかミクシイを見なくて、せっかくもらったコメントやメッセージにも無礼をしてしまっている。金曜日には田辺・弁慶映画祭で「サマーウォーズ」を見て、見てとても面白くてなにより元気とか勇気とかが出たけれど、あとで頭のなかで反芻してみると「でもこれは映画のなかのことだなあ」という感じが強くなる、そんな映画だった。アニメでありながら描写、風景や人間のしぐさの描写の素晴らしい映画だけれど(同じ監督の「時をかける少女」もそうだった)、でもだからこそ、「映画のなかのこと」と感じてしまう。テンポがよすぎるのかもしれない。
 土曜日は朝から、同じ映画祭のコンペティション作品で「ベオグラード1999」。新右翼の「一水会」の木村三浩を追ったドキュメント。監督のいうとおり、「市役所のとなりでかけるような映画じゃない」けど、面白かった。けど、町おこしの祭りの一環の映画祭で、招待作品の「サマーウォーズ」よりずいぶんお客さんも少なくて、映画のあとの質疑応答もたぶん地元のひとからのは全然なくて、「映画祭」を地域に根付かせるのはたいへんなのだろうな、と思う。ぼくはもともと地元の人間ではないけど、それでも「地元が置いていかれている」感じがしてしまった。
 疲れたからほんとうは見たかった午後からの「ナーダムを探して」という中国の映画は見なくて、「ブラタモリ」よろしく田辺市の街なかを散歩。商店街や屋敷街。目的なく歩くとそれまで見られなかったものを見ることができる。「そのために生きていた」とも思えるとしたら、ふだんそれを見れていない自分は、なんのために生きているのだろうと思う。映画を見て、小説を読んでそういうことを思わされるときもあるけれど、フィクションによって引かれた頭のなかの補助線を、いつもの毎日のなかで何度でも引き直す必要がある。
 スーパーに行って靴のクリームを買ってマクドナルドを食べて14インチのテレビデオで映画を見るという一日のなかでも、それができるということを今日は知った。ハンバーガーを食べるときは、テーブルのうえに新聞紙を敷くとよい。その新聞紙が、朝日新聞の月曜版に折り込んである「GLOBE」という新聞内新聞だったから、その用紙はふつうの新聞より白くてきれいで、なんだか気分がよい。そんなことも今日は知った。
 日曜は朝から散歩。近所の球場で少年野球をちょっとだけみた。早起きしたから眠くなって昼寝、夜は寝られなくてウィークデイに響いている。