EYE,BRAIN,and BODY

  • 7/11(土)

1.
 友人たちのバンド「パタゴニアン・オーケストラ」とともに作った、音楽CDと小説本という、あまりない組み合わせの作品集『夜明けまで』。
 その『夜明けまで』の、特設ウェブサイトを作りました(ごく簡単なものですが)。試聴、立ち読みができるようになっていますので、覗いてみてください。
http://www.yoakemade.com/
2.
 勉強のためにひさしぶりに図書館へ。
 県立図書館の分館であるそこはけっこう充実していて、今日ははじめてカードを作っていくつか借りてみた。たまには図書館もいいな。本はだいたいいつも読んでいるけれど、それでも家にある本の三分の一くらいしか読んでいないとおもう。
 「もったいない」「ばかじゃないの」といわれればたしかにそうかもしれないが、これをCDやレコード、ゲームとかDVDとかに置き換えてみれば、そういうものが好きな人にとってはわかるのではないだろうか? まったく見てない、やってない、ってことはないにしろ、一回見たきり、やったきりっていうのは誰しもけっこうあるはず。
 それで図書館では絶版だったり、少し高かったり、買っても読めないかもしれないということで二の足を踏んだり、というようなふだんなかなか買わない/買えないような本をいくつか選んでみた。
 ・小沼丹『椋鳥日記』(河出書房新社
 ・布施英利『体の中の美術館』(筑摩書房
 ・千住博『美術の核心』(文春新書)
 ・杉本博司『現な像』(新潮社)
 ・パトリシア・ボズワース『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』(文藝春秋
 美術書が多いのはたまたまその棚をみたから。このなかで個人的な白眉は小沼丹小沼丹(おぬま・たん)なんて、ぼくはうろ覚えで「小沼舟」(こぬま・しゅう)とおもっていたくらいでぜんぜん知らないのだけど、先日ミクシイでぼくの紹介文を書いてくれた「いもうと」が、この人の本に「紹介文小説」みたいなのがある(井伏鱒二のことなどが書いてあるらしい)と教えてくれて、てきとうに探してみたのだけど、この本ではないみたい。でも、おもしろそう。
 ぼくの読む早さでいったら、これらぜんぶを返却期限の二週間で読めるわけないけどまあ借りたものなのでぱらぱら眺めるだけになるとおもうしそもそもそういうつもりで。なかにはまって読めるものがあればいいか、くらいで。「本を借りるだけで済ませて購入して手元に置かない人は、ほんとうの意味の知識は身につかない」という趣旨のことをいったぼくの好きな作家のことばには、たしかにそうだろうとおもうのだけど、まあ可処分所得が多いとはいえないので、図書館をもっと積極的に活用しよう、と今日はおもった。

  • 7/12(日)

1.
 今日も勉強。あいまに、昨日図書館で借りた布施英利『体の中の美術館』を少しずつ読んでいる。
 おもしろい。いまは東京芸大の准教授(美術解剖学)である布施英利の本は、大学院生のときに養老孟司のすすめで書いたというデビュー作『脳の中の美術館』がうちにある。学生と社会人の変わりめくらいに読んだような記憶がある。あとたしか新書が一冊。
 それもすごくおもしろかったのだが、デビュー20年目の節目のようなタイトルのこの本は、なにか、著者のかんがえていることが、「ちゅーーっ」っと、こちらのあたまに直接流れ込んでくるように感じられる。静脈注射のような、経管栄養のような、アニメ『攻殻機動隊』の「電脳」による記憶のコピーのような。
 小説にしろ評論にしろ、はじめて読んだ著者のばあい、その書き手の思考の「型」というか、書き方の「生理」というか、文章の「速度」みたいなものに慣れるのに時間がかかって、同じ著者の本を何冊か読んでようやく、感覚をつかんでくる、わかるようになってくる、というのはよくあることだが、美術に関する知識では著者とぼくでは比べるまでのないのに(あたりまえだけど)、それでも「そのまま」わかるような気がするのは、著者の筆力というものなのかもしれないが、とても不思議な感触。
 茂木健一郎のサイトに置いてある東京芸大の講義(茂木健一郎は布施英利の誘いで芸大で講義を持っている)やその他の講演の録音(mp3)で、布施英利の話すのを何度か聴いているからだろうか? 読んでいて「話しているそのまま」と感じるとき、筆者の書き方は「話しているそのまま」ではけっしてないはずで、そういうふうに感じられるように書いている。
 でもそれ以上にストレートな何かを感じるということは、布施英利という人が、20年以上研究者、批評家として美術に関わってきて、なにかわたしたちにはわからないものを掴んでいるような気がする。この本は難しい専門用語で書かれているわけではぜんぜんないのに。
 「本を読むのはバカを直すためにするようなもの」と、ぼくの好きなマンガ家がいっていた、とこれまた別の好きな書き手が語っていて、この感じ、この「美術についてなにかを掴んでいる人」の脳がトレースされる感じは、なんかバカが直りそうでたのしい。
2.
 帰りに古本屋でくらもちふさこ「おばけたんご」と玖保キリコ「シニカル・ヒステリー・アワー」14巻。
 夕食前後に「おばけたんご」を読む。おもしろい。主人公は高校生の女の子・憧子。少女時代の「婚約者」(コンニャクしゃ)・端午を事故で失って、彼は「たんごさま」として彼女のなかに生き続けている。
 ぼくは、妻のことを「外付けHDDみたいなものと思っている」という趣旨のことを日記に書いたことがある*1のだけど、記憶装置というより演算装置として、憧子にとっての「たんごさま」はいる。そして今の恋人兼フィアンセの陸ちゃんもそうだ(憧子のモノローグでは「バリア」と書かれる)。
 ラスト近く、憧子と陸ちゃんは別れることになるし、そもそも端午という幼い命を失って始まる物語だけど、けっして「悲しみ」に彩られた話じゃない。高校生の憧子ちゃんが、小さい頃に登った大きな木に再び登って、陸ちゃんの目のまえでゴリラのものまねをするシーンがいい。幼い頃、端午と蝉とりをして遊んでいたとき、陸ちゃんに初めて出会った木の上で。

*1:妻というパートナーがいることで、自分の存在が拡張される感じ、彼女が経験したことも、考えたことも、自分のものとしてもいいと感じられる、ということを指している。