宿題とチョコレートあるいは株式会社と戦争

 このところ枕もとにごく小さな段ボール箱をおいて、そのなかに文庫本や新書を何冊か入れておくようにしている。入りきらない単行本もかたわらにおくから、枕もとにはだいたい10冊くらい本があることになる。
 わが家の寝室は和室(畳)で寝具は布団だから、サイドテーブルのようなものは必要ないし、本を読みたいなら畳の上にそのまま積んでおけばいいのだが、夜ごとに「読みたいもの」の気分がちがうために、また、本棚が寝室から遠いために、その日の気分で何冊か持ってきて枕もとにおく、ということを日々くりかえすと、枕もとがたいへんなことになってしまう。ある程度になったら戻せばいいのだが、ものぐさな性格でありそのままになるか、本棚の部屋に持っていくのがめんどうなので、ふすまで仕切られた寝室の隣の居間の棚(というかレコードのターンテーブルのふた)の上に積み重ねられる。
 で、箱にすればその大きさまでしか入らないから、それ以上本が増えない……というふうにいわばじぶんをコントロールする方策として箱をおくことにしたのだった。単行本をそのそばにおいている時点ですでにルール違反(?)だけれど。
 しかしこうして枕もとの本を制限すると、おのずとそれは「厳選」されてしまい、いまのじぶんの関心や嗜好に沿ったものだけになりがちで、せっかくの読書が窮屈なものになり、けっきょくどの本も読み通すことができない。
 で、それではいけない、もっと気軽に読もう、と思ってまたじぶんの本棚をながめ物色して、
 「では児童文学ではどうでしょう?」
 「いいね。こどもの本だもんね。気軽だよね」
 「人にもらってて、読んでないものもあるしね」
 そんな綿密な自己会議の結果、手にしたのが、以下の二冊の児童文学。
 ・古田足日「宿題ひきうけ株式会社」(フォア文庫
 ・大石真「チョコレート戦争」(講談社文庫)
 しかしこのセレクトは上記のような安直な理由だけでもなくて、先日、ずっと人から借りたままになってて読んでいなかった浅野いにおのマンガ(「虹ヶ原ホログラフ」と「おやすみプンプン」)を読んで、「なんでこんなひどいことばかり書かれなければならないのか」「現実のひどさをトレースしたものがいい表現なものか」「せっかく素晴らしい画力やストーリーテリングやテクニックを持っているのに」「なんかマンガという表現が過剰に“いまの気分”を背負わされているんじゃないのかな」「短編のほうは違和感だけで終わるけど、長編となるとそのストーリーに引き込まれる。でもそれは“おもしろい”とはちがう」「関心がなくなっても村上春樹の長編を読み始めると読んでしまうのと、同じことだろうな」というようなまとまらないもやもやした思いがたまっていて、もっと牧歌的だった時代の表現を読みたいと思ったのだった。
 それでまず読んだのは「チョコレート戦争」で、1960年代に書かれたこの本はたしかにお話は牧歌的であって、表題となっている「チョコレート戦争」の意味するところも、小学生が洋菓子店のショーウインドーからチョコレートケーキを盗みだす、というたわいもない話なのだけど、この小説にもその時代を反映した「もやもや」が作品世界をおおっていることに気づく。教育ママに他のコのお母さんがいやみをいわれたり、大人がやたら子どもに対して抑圧的だったり。
 でも、<洋菓子店の社長に「ショーウインドーを割った」といういわれなき罪によって怒られた少年たちがしかえしに店のじまんのチョコレートケーキを盗み出す。しかしその犯行は事前に店側に知られていて少年たちは意図に反して店の宣伝をさせられることになる。しかし別の少年によって書かれた無実の罪を告発する学校新聞の記事により洋菓子店は危機におちいり、そこに真犯人が現れて……>というようなストーリーを現代の「リアルな」(こんな言葉あんまり使いたくないけど)実感にもとづいて2009年におきかえたら、大団円にむかうまえに破綻してしまうだろうな、とおもう。というか、最初にショーウインドーを割ったかどでしかられるシーンさえ成立しないのではないか。
 なんてなことを考えてしまって大人であるじぶんはじゅうぶんに児童文学を楽しめないのだが、でもこどもだってそういうふうにいろいろ考えて本を読むだろう。
 「宿題ひきうけ株式会社」のほうはまだ読んでいないのだが、この本はたぶん小学生のときに読んでいて、だから懐かしくて買ったのだけど、あとがきを先に読んでみるといまここにある「宿題ひきうけ株式会社」は1996年に出た「新版」で、内容の一部分がさしかえられている。ある本を読んでこどもたちがいろいろなことを考える場面が出てくるのだが、引用されたその本が、北海道の先住民族であるアイヌに対して差別的な内容であることに、著者が読者からの指摘によって気づいたからだという。
 この「宿題ひきうけ株式会社」は児童文学の巨匠である著者の代表作のひとつで、だからこそ60年代に初版が出て、今に至るまで読み継がれているのだけれど、そうした理由から初版から30年ものときを経て改稿されている。
 気軽に読むのはいっこうにかまわないのだけど、ことほどさように作品をものするということはたいへんなことだなあ、とあらためておもう。でもみょうな経緯で再読することになりそうな「宿題ひきうけ株式会社」、なんだかとても楽しみになってきた。
 やっぱり本を読むのも、じぶんの関心に沿ってリニアに読むだけじゃだめだなあ、とおもう。脱線からしか得られないものがたくさんある。だから貸してくれた人にはもうしわけないけど、「これは受け入れられない」ということがあっても、人からすすめられたりくれたりするようなものは、やっぱり読んでみなきゃ。