ねたあとに、ねるまえに

 「ねたあとに、ブログ」にも書きましたが、「ねたあとに、Vol.002」おかげさまで無事終了しました。来てくれたみなさん、ありがとうございました……というオフィシャルなお礼や報告はイベントブログにゆずるとして、少し裏話(?)を。
 「ねたあとに、」というイベントの名前は、文学史に名を残すであろう、こういう小説(家)にノーベル賞とか、獲ってほしいなと個人的に思っている素晴らしい小説*1のタイトルから拝借したのですが、今回配ったショートショートに「ねるまえに」というタイトルをつけたのは(というか、このタイトルありきで、思いつくことを書いたのですが)、「ねたあとに、」をいつも「ねるまえに」と間違える人がいて、面白いな、と思ったからで。
 いま盟友のバンド、パタゴニアン・オーケストラと一緒に、ぼくが本を書いて、バンドがCDを作って、作品集を作っているのですが、そのタイトルが「夜明けまで」で、バンドの曲は「夜明け前」で、それもメンバーも含めてよく間違うんです。でもぼくはそういうのはけっこうちゃんと憶えているので、間違えない。でもそういうのが面白くて、あえて間違えそうなタイトルを、元のタイトルと少しずらしてつけたり、まぁ「夜明け前のこと」より、「夜明けまでのこと」を書きたいな、と思ったり、「ねたあと」のことじゃなくて、「ねるまえ」のことを書きたいな、とか、ちゃんと動機はあるんだけど、でも「似てるけど少し違う」っていうこと、ありますよね?
 たとえば昨日のイベントのなかでもあったけれど、共通の趣味や関心を持つ友人と、大好きな小説や音楽、映画について話していて、大筋はふたりの考えている、感じていることは似ているんだけれど、でも少し違う。でも、その場の会話のなかでは、「違う」ことよりも「同じ」ことの方が強調というか重要視されて、その場の話は「そうだよね」「わかるわかる」ということになるのだけれど、「違う」部分もやっぱり重要で。でも会話としては「違う」部分は言葉にすることが難しくて、お互いたぶん口に出して言うことができない。けれどそういう部分があることもお互いに共有しているはずで、「同じ」ということ、「共感」ということしかなかったら、ぼくはその会話は、というかその関係は(そんなに)面白くない。刺激がない、というか。
 お互いもっと何かを言いたいんだけれど、うまく言葉にできない、という状態はたぶん「幸せ」と同義なのです。これは「ぼくにとっては」という話ではなくて、普遍的な真実です。
 「言葉が100%伝達することは不可能な欠陥品であるがゆえに、他者との言葉による<コミュニケーション>が成立する」。
 そしてその「うまく言葉にできない」ことを、つまり言葉で表現することはすごく困難か不可能なことを、それでもなおかつ「言葉で」表現しようとすることは難しいけれど楽しいのです(ここは、「ぼくにとっては」)。でもぼくは「言葉」が好きなんじゃなくて、言葉を使って、「表現されたもの」が好きで、だからぼくは言葉を使って表現するけれど、「表現されたもの」は、音楽でも映画でも絵画でも、同じように好きだし刺激になります。もちろんくだらないものもたくさんありますが。
 「好みの問題」で処理しようとする人もいますが、「相対的な価値は、そもそも価値とは呼ばない」というのがぼくの好きな言葉で、そう考えると世界がくっきりします。「世界のことは、わからない」という意味でですが。

*1:もちろん、そういう歴史云々とか受賞云々とか関係なく素晴らしい小説!!!!