ねるまえに

 昨日は仕事から帰るなり寝不足で眠くて早く寝ようと思ったからやらなければならないことをやったあとすぐに夜10時頃には床について、寝る前に何か読もうと思い、「最近あまり読まないような本を、できれば小説以外で」というようなことを考えながら本棚から今まで読んだ本も読んでいない本も含めて何冊か取り出してきた。

  • 深沢七郎『みちのくの人形たち』(小説)
  • チェーホフ『妻への手紙』(書簡)
  • 酒井啓子イラクアメリカ』(新書)
  • 『weird movies a go! go!』(映画雑誌)
  • 『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』(評論/散文集)

 これらをぱらぱらめくって、けっきょく『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』を少し読んだ。これはあの2001年の9.11の直後の11月に出た23人の筆者による、タイトル通りのことをそれぞれの言葉で綴ったり語ったりした文章を集めた本だ。当時としてはこれらの言葉が、この異例の「早さ」で世に出ることが大切だったのだろうが、今こうして読み返してみるとそれはそれで興味深い言葉がならぶ。

 利益に関係しないところは見捨てられたままだったから、その結果として生まれたのは、今日の自分はなにかを食べることが出来るのかどうか、という問題を引き受けるだけで精いっぱいの状態を生きる人が、数だけをかぞえて十億単位でいる、という現状だ。

 ぼくはそこでかつてぼくたちが「新人類」や「おたく」と呼ばれた時代にぼくたちに向けられた「現実感の喪失」なることばを思い起こさずにはいられない。政治の世界に於ける言説がメディアで流通する言語の水準で閉じてしまっていて、その外側に想像力が及ばなくなっている。そんなことを「おたく」の第一世代が皮肉を込めて口にしなければならないほどに事態は悪化しているのだ。

もちろん真相はもう誰にもわからない。でも真相など実はどうでも良い。大切なことは他者の情感や営みを想像する力だ。そして強調しておきたいのは、僕らが想像する力を失ったということだ。

 歴史とジャーナリズムは似ている。これらの分野の前提に従うと、世の中が「できごとの連続」に見えるからである。それなら「起こらなかったこと」はどうなるのか。
 車を運転するときに、だれでも最大の注意を払うのは、「事故を起こさないこと」である。しかし歴史をできごとの連続とみなすと、その分の努力を忘れてしまう。歴史にも新聞にも、事故だけが記録されるからである。

 しかし私は、「現在なんかなんでもない」と思っている。バカな男や女がグズグズしているだけの、意味ありげで「低級ではない」と思われている映画を見ることになんの意味があるかと思っている。自分のカツカツの生活を成り立たせるために働き続けて、ストレスばっかりたまっているから、たまには「ちゃんと内容のない映画」を見て、これを発散させる必要があると思う。

 しかし私と彼らとが全然異なるのは、私が私にとって善いとしていることは、すべての人にとって善いことであるということだ。私にとってのみ善いことで、すべての人にとって善いというわけではない。これでは「善い」ということの意味にそもそもならない。相対的価値は相対的であるというまさにその理由によって、価値ではあり得ないからである。絶対的なものをその絶対性において価値とするのでなければ、価値は価値という意味にはならないのである。

 洗濯をして、中古レコード2枚分を僕はその日の昼間にたっぷりと聴いた。音そのものを受け止める身体的な感覚は、当然のこととして快適そのものだが、自分はこういうものを聴いて育って現在に至っているのだ、という引きかえしようのない自覚も、それは複雑な痛みとしてもたらした。好きであればあるほど、理解できればできるほど、その自覚は足元から自分を浸してゆく。

 私と二人きりの大切な時間に、彼女はその受像器の中の出来事やどこからともなく聞いてきたことを、おとぎ話のようにして聞かせてくれます。時代が改名された経緯だとか、唇の厚い首相は殺されていたのだとか、動物や人間の複製品が生産されているなんて、信じがたいことが、彼女の柔らかな唇と白く輝く歯から発せられるのです。それはニュースと創作劇の区別なく話されるものだから、私の頭の中では、ライオンの気ぐるみ姿の行政改革を強行する新首相が、防虫剤を手にした気丈な女性の大臣と組んで、ワインと高級車の好きな腹黒い悪老人たちと戦っているということになっているのです。

 ねえ、君、私の大好きなチミ、もういい加減に二人きりの沈黙の時間を味わおうよ、と私は願うのですが、なかなかそうはいきません。政治も経済も、いつの時代だって不愉快と腐敗の悪臭を放っているのに、いつになったって変わることのない世界なのに、優しい彼女は、きっと世界は良くなると信じているらしく、社会の動向を気にしています。

 というような色々の言葉を読んでいると、妻が「肩を揉んで」というので、読みながらなら揉むのも苦にならないと思い、「じゃあこれ読んであげるよ」ということになって、この本を朗読しながら妻の肩を揉んだ。かつて一度読んだことがあるとはいえ、読みながら先がどうなるかわからない文章を朗読するのはなかなか楽しくて、それにまた池田晶子とか島尾伸三とか、文章は素晴らしくて、「善きもの」をみつめるそのまなざしは美しくて!

「あーん、良いこと何もないのに」「悲しみ!」。

 妻もよかったらしく、「面白かった」という。妻は聴いていて心地よくなってくるから読み終えたころにはうとうとしていてそのうちに眠ってしまい、でもぼくはそれなりに難しい文章を頭を使いながら読んでいたから眠気が吹き飛んでいて、なかなか寝つけなかった。でもこういうことは楽しい。この本だけでも、まだ3分の2以上残っています。さ、今日は続きだ。