百年の孤独

 この4月から始まった、朝日新聞の読書欄の「百年読書会」という企画(重松清をナビゲーターに、古今の名作を読者とともに読み返すという投稿コーナー)に乗っかることにして、太宰治の『斜陽』を読んだ。20代前半に読んでいらいたぶん2回目。

私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の御逝去の時は、もう十九にもなっていたのだ。(17ページ)*1

お金が無くなるという事は、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう、と生れてはじめて気がついた思いで、胸が一ぱいになり、(……)(26ページ)

お母さまは半熟を三つと、それからおかゆをお茶碗に半分ほどいただいた。(32ページ)

戦争中の、たのしい記憶は、たったそれ一つきり。思えば、戦争なんて、つまらないものだった。(46ページ)

私は知らなかったのだ。コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ。(67ページ)。

 人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ。ぷ!(81ページ)

「私、いちど、お酒飲みを見た事がありますわ。(……)」(87ページ)

「女のかたは、それでいいんです。女のひとは、ぼんやりしていて、いいんですよ」(104ページ)

「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの」(112ページ)

待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。(117ページ)

 私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。(147ページ)

 気にかかった箇所に付箋をつけながら読んで、その部分をまとめて読み返してみたら、今の私たちに通じるところ(1)もあるし、そうでないところ(2)もある。
(1)は、<私は二十九のばあちゃんだから、十年前のお父上の御逝去の時は、もう十九にもなっていたのだ。>とか。今の高校生くらいの女の子とかも、言いそう。
(2)は、<人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。>というところとか。「がっつく」こと、主張することがよしとされる世の中で、こういう述懐をする人はたぶん評価されない。
 でも、「悲哀の底に沈ん」だ母の臨終にあたって、<私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら>と思ったり、セーターを編みながら、<コスチウムは、空の色との調和を考えなければならぬものだという大事なことを知らなかったのだ。>なんてことに気づくことができるかず子は、今の私たちよりも、いっけん、そのナイーブさゆえに不幸に見えても、幸福なのかもしれないと思ったけれど、それにしても病気で寝ている人が、食欲がないといって半熟たまごばかり3個も食べるだろうか、とか、そういうところが意外と気になる。
 <隣の間のスタンドに灯をつけ、たまらなく侘しくなって、いそいで食堂へ行き、缶詰の鮭を冷たいごはんにのせて食べたら、ぽろぽろと涙が出た。>(132ページ)というようなシーンで、「せめてこの場面で、電子レンジがあったら、温かいご飯が食べられたら!」と思ったり。
 昨日の日曜日、陽気に誘われて、堤防の陰でコーラを飲みながら読んだのだけど、そのシチュエーションに全然似合わなかった。『異邦人』とか読んだ方がよかったかな。*2
 次回は深沢七郎楢山節考』らしい。ぼくはあまり「名作」を読んでいないのだが、なぜかこれも一度読んだことがある。この企画、日本文学ばかりなのかな。『楢山節考』もひさしぶりに読んでみようと思う。



*1:ページ数は全て新潮文庫

*2:「太陽のせい」とか言いたくなるような陽気、風景!