「抱き合わせなんだろう、孤独と自由はいつも?」

 遠くに住むいとこが来るというので妻が実家に行ったから、この三日間はずっとひとりで家にいた。というか、妻といっしょに行ってもよかったのだが、休み中にいろいろとやることをやっておかなれば、ということで同行せずに、ほとんどどこにも出かけずに、起きているあいだはだいたい「やること」をやるためにパソコンの前にいた(といっても、「やること」をずっとやっていたわけではなくて、合間には、ぼんやりネットサーフィンしたり、本を眺めたり、電話したり。あるいはその逆)。ひとりでいるとかなりの時間、テレビを点けていることになって、テレビなんか点けない人も多いだろうがぼくはけっこう点けている。
 「なぜテレビを見るのか?」という問いに、吉本隆明が「さびしいからですよ。」とある本のなかで答えていた、その身も蓋もなさというか、率直さというか正直さというかが印象深くて、ひとりでテレビを見ているとほとんど自動的にこのことを思い出して、たぶん一生忘れないと思うのだが、何かをしながらテレビを点けているときはほとんど見ていない。この感じが「さびしいからですよ。」ということなのだ(ろう)が、こういうときテレビが、「とにかく時間の隙間なく何かを流し続ける」メディアであってよかったと思う。ぼくはテレビというメディアは、「面白い(あるいは役に立つ、など)番組を作る」とか、「視聴率を取る」ではなくて「とにかく何かを流し続けること」が本質、とまではいかなくても、テレビに携わっている人にとっての実感じゃないかと思っていて(というか、「労働」というのはそういうものだろうが)、それは労働に対するネガティブな感情ということでもなくて、そのなかでがんばったりがんばらなかったりして、面白いものや面白くないものができたり、命を削るような努力をしたり、才能が煌めいたり、惰性や妥協によってものが作られたりするのだろう。
 だから現実のほとんどは「スカ」で、美しいものや素晴らしいものは一握りしかないのだが、ただテレビを点けているときはそれでよくて、ただ音が、誰かが話す言葉が聞こえていればいいのだ。もちろんずっとテレビを点けているわけでなくて、音楽を聴いたり、落語や講演を聴いたり、何も流さなかったり、ごくたまには、部屋の中や外の音を聴いたりすることもあるけれど、ひょっとしたらただテレビが流れていることで(たとえそれがどんなにつまらないものでも)、救われる何かもあるのだと思う。その逆も、あるかもしれないが。
 妻が乗って行ったから車もなくて、外に出るときは原付もあったが自転車で、三日間で出たのは図書館に行ったのと昼食とそのついでの本屋に寄った二回だけで、外に出るたびに気づくのだが、ひとりで家で、しかもパソコンの前なんかにずっといると、知らず知らずに自我だけが拡大して、「外がない」感じになっていると思う。
 吉野家で牛丼を待ちながら、いつもヒマな店でたまたま忙しい休日の昼間だからなのか、それとも単に慣れていないだけなのか、もたもたしている店員の男の子の様子、定食にもうひとつ別の定食のおかずが欲しくて、「これは単品にならないのか。」と、そのもたついてる店員に「問い詰める」という感じで訊ねる男性客、支払いのとき、財布だけ椅子に置き忘れてまごついている自分、北風でまったく自転車が進まないこと、帰り道に聴くiPodを、行きで聴いていたプレイリストの音楽のままにするか、小林秀雄の講演にするか迷って、結局音楽の続き(小沢健二の「天使たちのシーン」)を聴きながら帰ったこと、家に着く最後のカーブで、いつも空が目に入る、その空の高さと青さ、雲の造形美! 錆びついた自転車のカギを抜くときの、微妙な手加減のコツ、そういう世界のディテールは、部屋の中では、パソコンの前では全然見えなくなっている。
 だからこれもそんなディテールを思い出しながら書いているが、パソコンで書いていては世界(にとって本当に不可欠)のディテールは、こぼれていってしまうのだと思う。少なくとも、ぼくにとっては。そろそろまた手書きで何かを書き始めようかな、と思った。