言い足りなさを言葉にする

 来年の目標は、「言い足りなさを言葉にする」。
 刹那的なものへの愛を若さとか青さとかいうのだとしても、折にふれてそんな歌が好きになったり、そんな歌のために生かされたり、それによってまたそんな歌を聴いたりする。
 「明日がくるまでせめて、楽しくしていたいの/駅が混むから、もう少しだらだらさせてよ」とか、「人ゴミの街が大好き/さびしくないから」とか、「スターライト 歩いていこう/悲しみがあとで来ても」とか、女の子に歌われると「それでもう全部じゃないか。」って気がするから、言い淀んだり、考えあぐねたりすることなんか何もないようなのだけれど、たぶんぼくはそういうわけにはいかない、ということも本当はわかっていて、
 「黒い空 ひどい雨で コンクリートを叩く音/黒い空 ひどい雨 窓ガラスを濡らす雨を/ずっと見ている」
 こう歌ったのは友人のバンドで、男だから、という理由だけではないはずだけど、こちらには「言い足りない気持ち」だけがあるみたいだ。
 楽しい宴のあとの、なぜか後悔するような気持ち、すなわち、酔いにまかせてしゃべりすぎた感じも、ひとの言葉に合わせ過ぎて言い足りなさを悔やむ感じも、自分のことでせいいっぱいで相手の話を訊けなかった反省も、相手の顔を、相手の瞳をうまく覗けなかった後悔も、バカみたいに当たり前のことで、言葉で置き換えることはできない。
 だから言い足りなくて、外をジョギングしながら考えてるのは、
 「あんなふうに歌う女の子は、『満月のときは細胞がざわつく感じがする』とか、簡単に見えていないものを言葉にすることができて、だからそれは見えてることと一緒なんだろうな。」
 とか、ひとことで「全部」になる女の子への羨望か嫉妬で、それはだから、“好き”ってことと一緒じゃないか、なんて思ったりするだろう。
 そういうときには目の前に浮かびあがるオリオン座さえも羨ましくて(誰に、何に対して!)、短い距離で息が上がる自分に不甲斐なさを感じる前に、もっともっと歌に耳を傾ける。
 ヘッドフォンから流れる歌は、(こういうときには)いつも同じがいいのだ。
 「一緒に歌った君の奏でる音楽は/空中を漂っている電気信号 皆に届け」
 という歌の、「空中」を「宇宙」と思って聴いていたことに、こうして書きながら気づくのだから、走っているときには気づかないだろう。そう、これから走るのだとしても。
 好きになるのなんてあんまり理由なんてないから、ちょっとした写真や文章でレンズの向こうやモニターの向こうの女の子が好きになったり、二巻から読んだマンガの続き(もちろん、ぼくにとってはまだ読まぬ一巻のこと!)が気になったり、何度読んでも読めない本を、また何度でも最初から読みなおしたり。それがぜんぶ“好き”なんだとしたら、一生かかっても“好き”を消費し尽くすことなんてできないし、何より現実にこのテーブルの向こうに、電話越しに、メールの文章の先に、街で、海で、誰かの家で、大好きな女の子がいる。女の子じゃなくても、大切な友人が来る、なんて夜には気もそぞろ、部屋を掃除しながらそわそわしたりする(精神的バイセクシャル!)。
 刹那的なものへの愛は若さとか青さとか、簡単な言葉で言い表されるものなんかじゃないだろう? 具体例を挙げ続けていると、問いかけるような感じで、断言したくなるような気分になって、だから来年の目標は、「言い足りなさを言葉にする」。
 今年の目標は何だったっけ? 去年の今ごろを振り返ればいいのだけど、「志や大義があって、ほめてもらえるような/そんなものばかり集められやしない」のだから、覚束ない来年のことを喋ってるんだから、「もう、忘れた。」でいいんじゃないか? 来年の目標は、「言い足りなさを言葉にする」。
 世界は個人の感慨とは無関係に廻っている、ということが、今日は嬉しい。