生のゆくえとしての死、けど、そんなことはどうだっていいだろ?

 昨日書いた夢日記は書いたとおりの夢で、その「死」の焦燥感を出すための書き方としての、ぼくのいつものまだるっこしい書き方ではない、文節の少ない、現在形を多用した文章なのだが、それで夢のなかでの焦燥感を十全に表現できているとは思えない。
 というか感じていたのは「焦燥感」ではないのではないか。死ぬのを予感していたとはいえ、漫然と、悠然と会話し続けていたのであり、死への言い知れぬ恐怖は、心のうちにあったのか、あるいは自分の「外部」に、物理的に迫りくる「モノ」としてあったのか。
 いずれにせよ、死それ自体、漫然としたものなのだ。ここで死は、死を迎えるその「瞬間」のことではなく、その瞬間以降、ずっと続くものなのだ。あるいは、その瞬間さえなく、生と死の境はあいまいであり、さっきまで生きていたものが、地続きのまま死んでいる。死は事件ではなく、状態である。
 これは身近なものの死に対する実感に似ている。若くして亡くなった大切な友人は、生の終わりとしては死んだ年齢のままだが、「死んでいる」その状態は、もう何年も続いている。
 だからこそ大切なものの死は、生きているものに影響を与え続けるのだが、時がかさなるということが、それだけで福音である、ということを実感させてもくれる。大切なものの死が、生きている私たちの生を照らし返してくれている、と考えるとき、その光源は、ここではないどこかにあるのではく、物理的に地続きな空間、三次元でもわかりにくければ、同じ数直線の先にあると考えれば、生は、死の一部ということになる。数直線の比喩をそのまま使うなら、絶対値としては生<死である。あるいは、集合に例えるなら、生は死の部分集合である。すなわち、「生は死に含まれる」。
 というふうに断定的に語って、わかったような気になるのは大いにまずい。けれど、昨日のような書き方で、夢の論理を理解するよりも、どういうやり方でさえ、色々と考えるということがぼくは好きだし、考えないに越したこともないのだ。そういう破綻を、ぼくは愛している。