「私は現実の方が大事だと思ってるんですね。漫画なんかかいてちゃいけないし、ましてや読んでちゃいけないし、とついつい言いたいところがあるんですけど、だめですか(笑)。みんな読みすぎじゃないでしょうか。本も映画も漫画も。」(高野文子のインタビューより)

 多幸感というのは長く続かないもので今はたぶん下り坂だと思う。だからこそ、レスポンスが欲しくて久しぶりにmixiで日記なんか書いてしまったんだと思うが、そのmixiで友人Sのところにコメントしたことでマンガのことを考えた。
 マンガにしろ何にしろ、読み続けていなければ、そのジャンル、表現を見続けていなければわからないことはたぶんあって、接し方はどんな態度でもいいのだけど、全く接していなければいきなり触れてもなかなか得るものがない。
 小・中・高から19歳くらいまではマンガばかり読んでいたはずだが、19歳から20歳くらいを境にあまり読まなくなってしまった。それでも20歳くらいから22歳くらいまではヴィレッジ・ヴァンガードという書店でアルバイトをしていたので、それなりに読んでいたと思う。でもその頃から活字を追い始め、マンガよりも活字を読むようになった(レコードより本にお金を使うようになったのもこの頃)。
 そうやって今の自分が作られているわけだが、マンガをずっと読んでいたはずの自分はどこにいったのだろうか、なんて思う。高校の頃好きだったのは、江口寿史大友克洋よしもとよしともやまだないと岡崎京子藤原カムイ和田ラヂヲ荒木飛呂彦……あとは『週刊少年ジャンプ』と『COMIC CUE』。ぼくが高3だった96年、既にマンガを書かなくなって久しかった江口寿史が、ヤンジャンで「ラッキーストライク」という新作を書き始めたときはワクワクした(それも2回くらいしか続かなかった)。藤原カムイは今でもときどきチェックするが、どんなマンガもほとんど筋を憶えていないので(マンガに限らず、映画も、小説も、ドラマもだけど)、友人たちとマンガ談義になっても全然ついていけない。あまりにも憶えていないので、自分の頭のなかはどうなっているんだろうか、と思う。
 大好きな映画のひとつ、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」にこういうくだりがある。
 主人公のジョン・ルーリーがいつも一緒にいる友人に言う。
「笑い話があるんだよ。
 三人の男が道を歩いてた。
 そこへ向こうから別の男がやってきて言ったんだ。
 『靴ひもがほどけてる』」
「それで?」
「そこから先は忘れた。
 でも面白い話なんだ。」
「そうだろうね。」
 というこのくだりさえもうろ憶えだけど、ぼくのフィクションにまつわる記憶は一事が万事こんな感じで、だからぼくはこのシークェンスが大好きだ(もちろん映画全体の筋は忘れた)。
 長編マンガなんか読んでいると、途中で最初のほうの話を忘れている。何度も読んだはずの『風の谷のナウシカ』とか『AKIRA』とか完全にそうで、どっちも偉そうな批評的な感想を友人と喋り合った記憶が何度かあるが、たぶん話していたそのときさえ、全体の筋なんか憶えていない。読みながらも、何度も前のページに戻ったりして。
 『AKIRA』はないけど、『ナウシカ』なら家にあるから、また読んでみようかな。
 そのときの感じが、前に読んだときの感じと同じという保証はどこにもない。だからこそ、マンガも小説も、読んでいる時間のなかにだけ、存在するのだろう。



※「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のシークェンスは調べてみたら微妙にというかかなり違ってて、こんな感じでした。

ウィリーがいとこのエヴァ
ウィリー:
「ジョークを聞かせよう。三人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
違った、二人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
そこへ三人目の男がやってきて
“靴ひもが…”、“靴ひもが……”
その先は忘れた。
(一人で含み笑いを浮かべて)面白い話だ」
エヴァ
「(笑いながら)でしょうね」