「愛とは、私であるということと、他者(あなた)であるということが、同じことになってしまうような体験なのだ」

 今日は「好き」という気持ちと、「愛」と「セックス」について書こうと決めていたのだけど、職場の飲み会から帰ってきて、いつものように風呂の壁に貼った新聞、文化面に美術の記事があって、ある評論家が、アートシーンは供給過剰であり、選ばれた者だけが作品をつくるべきだ、という趣旨のことをいっていた。ある美術雑誌の休刊に寄せてその雑誌にそういうことを書いていた、という二次情報ながら、ぼくは穏当にいって、その発言をイヤだと思った。もっと率直にいえば、激しく軽蔑した。
 その評論家は詳しくは知らないがぼくのような門外漢もその名を知っている著名な人物で、ある素晴らしい書き手との共著もあったと思う(ぼくの勘違いでなければ)。しかしそういうことはここでは関係ない。
 その物言いは、はっきりと評論家の都合であり、この世界と同様に創作においてもくだらないものが氾濫していることはぼくにだってわかるが(というかほとんどがそうだ)、それらが注視に堪えないから、という理由でそれを止めることはできない。みんなもっと作る前に、考えた方がいいし、みんなもっと作りながら考えた方がいい、ということはぼくも常に考えているが、「選ばれた者だけが作品をつくるべきだ」というのは、玉石混交のなかから玉を探し出す立場の便宜のための発言に思える。評論家の怠慢だと思う。
 こんなネガティブな物言いは全て自分に返ってくるからだけでなく、自分にとって「良きもの」を生み出すこともなく、すなわち世界にとって「良きもの」を生み出すことはないからあまりというか極力したくないのだが、自己への戒めも込めて書くことにした。
 「好き」という気持ちと、「愛」と「セックス」について書こうとしていた気負いが、自分にこんな文章を書かせたのだろうか、という気もする。『恋愛の不可能性について』(大澤真幸)という素晴らしい本があって、おそらく素晴らしいことはわかるのだが難しくて全然読めていない。
「それで何で素晴らしいとわかるんだ?」
 しかしそれをわかるとするのが僕の立ち位置で、やっぱりぼくには「愛」は難しい。シンプルであるがゆえに。