#4

 夜、7時。帰ってきて、夕食を食べながら、ビデオにとっていた今朝の『ちりとてちん』。食べ終わって、これも録画していた昨晩の『未来講師めぐる』。風呂に入って、パソコンをいじりながら、『それでもボクはやってない』をテレビで。日中の疲れのけだるさのまま、14インチのブラウン管の向こうの物語にいちいち一喜一憂する。と、一見便利な四字熟語で感情の動きを言葉にしてみてもしっくりこない――ということは書く前からわかっていて、それではここに「マジック」は生成しない。
 様々な物語における現在が、その物語のそれまでの展開、すなわち過去を引き受けて存在していて、だからこそ心動かされるのだ、というのは当たり前のことのようだが、かつての自分はそう思っていなかった。かつてといっても中学生とか高校生くらいまでの話だが、色々な困難を乗り越えてハッピーエンドで終わる話も、抗うことのできない巨大な力によって志なかばに散ってしまう、というような話も、結末においていきなりどんでん返しが起こってもいいんじゃないかと思っていた。その方が、ラディカルじゃないか、その方が「人生の不条理、無意味さ」といったものの直截的な表現になるのではないか、そう思っていた。
 本当にバカみたいだけど、それくらいの歳ではしかたないのかもしれない、と今は思う。そういう一般化もイヤだから、その当時の自分の知り得ていた「世界」を考えてみれば、と言った方が正確かもしれないが。ただ、今は、その物語の過去をきちんと引き受けている物語には強く心を動かされる。そのことは確かだ。
 そして今朝の「ちりとてちん」のように、誰かと誰かのやりとりが、他の誰かと誰かの関係にも似たような形で繰り返され、そういうやりとりや感情の動きが、あたかも何世代にも語り継がれてきたフィクション(ここでは落語)をそのままなぞっているようなことも、「そういうことってあるだろうな」というか、そういうことこそ本当だ、と思うのだ。神話の構造分析や、音楽におけるモチーフを持ち出すまでもない。「マジック」が生成するのはそんなときだ。
 真琴のいうチョールスも、無知やいわゆる「天然」から生まれたものではなく、彼女が聴いてきた音楽やその他のことが、真琴にチョールスの音色を聴かせることを準備していたのだ。今はそこまでは言える。