断章#1

 気がねなどするはずのない両親であっても、こういうことは言い出せないというか、言っても無駄だと思うのだろうか、車酔いをしていて一刻も早くどこかに駐車して休憩したいのだが、そのことが言い出せない。窓を開けるとさわやかな風の入ってくる秋晴れの昼下がりで気分がよく、半年ぶりの帰郷で調子こいて喋り倒していた、30分前までの自分がすでに懐かしく感じられる。
 ぐるぐる回る山越えのルートにさしかかったあたりで、ガードレール脇の空き地に、ボディに大きく「共産党撲滅!」と書かれた右翼の街宣車が打ち棄てられているのを見つけて、無闇にうきうきしたのだった。しかし両親は何十年も繰り返してきたように、昼飯はどこにするのかだとか、その後の墓参りと、祖父の家に寄るのと、晩飯の買い物、その順番をどうするのかというようなこの日の段取りについて、ああでもないこうでもないと言い合っていて取り付く島もない。というと殺伐とした雰囲気のようだがそうではなく、二人とも顔が笑っているというかいきいきしている(後部座席のぼくからはもちろん運転席の父と助手席の母の顔は見えない)。それは二人の喋りの微妙な抑揚でわかる。
 さっきまで赴任先の中国の田舎の悪口を言い続けていた弟も、いつのまにか僕の左隣でぐっすり眠っているようだった。「共産党撲滅!」はいつからあそこにあったのだろう、いつまで放っておかれるのだろう、今では「共産党撲滅!」なんていうスローガンは右翼の街宣車に大書きされるほどのアクチュアリティはないだろうな、しかし何で街宣車が人里離れたこんな場所に置き去りにされているのだろう、これと同じように、全国津々浦々の山中に右翼の街宣車が打ち棄てられていたら面白いかもしれない、それらを探して日本縦断の旅をしてみたりして……と、ひとしきりその街宣車をネタに想像を膨らませてそれが尽きてしまうと、急カーブの連続で胃の辺りが引っ掻き回されているのが意識されて、途端に酔ってしまったのだった。
 右隣の真琴はぼくが喋っているあいだも弟が喋っているあいだもぼくの両親がキャッチボールにならない会話を続けているあいだもずうっと黙っていたが、それはぼくのように「言い出せない」のではなくて、僕の実家に初めて来て、いきなり車に乗せられて遠出ということになって、それこそ気後れしていたのだろう。あるいはぼくたちの一方的なお喋りに、彼女のいう「チョールスの音色」を聴いていたのかもしれない。