見ることと、少しの意志 ーパタゴニアン・オーケストラのJポップー

・土曜日に、たまたま大阪にいたのでパタゴニアン・オーケストラのライブを見れました。今日大阪から阪和線紀勢線に乗って帰ってくる「くろしお」のなかで、あの素晴らしい曲を聴いて思ったことを少し書いてみました。正直、この文章はあまりうまくないけど、色々なことのきっかけにはなりそう。

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「見ることと、少しの意志 ーパタゴニアン・オーケストラのJポップー」

 いきなり私事で始めるのをお許しください。
 わたしはパタゴニアン・オーケストラの
「ぼくを乗せたバスが南へと走り出して」というフレーズで始まる歌を聴いて、とても小説が書きたくなった。
 それは、
「また雨が降り出しそうだから/傘をさして歩いていきましょう」
 というコーラスのせい。
 レゲエともロックステディともJポップともいえるミディアム・テンポの演奏でゆっくりと歌われることばは読めばわかるとおりただ「雨が降りそうだから傘をさして歩こう」といっているだけ。そこにあるのは小さな意志。「傘をさそう」そして「歩こう」っていう。
 歌詞を並べてみればわかるけど、世のなかにはエモーションにあふれた歌が、あふれてる。恋愛に家族愛に生き死にの哀しみ。わたしはこう思う。それはあなたに伝わってる? わからないから辛いの。でも伝えたい想いは止まらない。だからこうして歌ってる。それでも届かないなんて。
 そんなエモーションはだれでも抱えていることだから、こういう歌は伝わりやすい。でもパタゴニアン・オーケストラの歌はこんなふうに続く。

ぼくを乗せたバスが南へと走り出して
きみの街の景色が遠く見えなくなった

走り出したバスがスピードを少し上げて
きみと歩いた街も思い出せなくなった

空の色が少し変わったら
風が吹いた窓の外を見た

また雨が降り出しそうです

 ライブのMCで、大阪から彼らの地元、和歌山に帰るときの歌だと作り手は説明する。阪和道の暗い夜道を南へと走るときの歌。でもそのとき何を感じているか、作り手は説明しない。歌詞にも書いてない。歌詞にはただ、「ぼく」の見ている景色のことと、見ている景色が変わることで、「きみと歩いた街」が「思い出せなくな」るという、感情というより事実に近い心の動き、外を吹いている(だろう)風のこと、変わりそうな天気のこと、わたしたちの周りにあってそこにあることさえ意識しないことばかり歌われている。

 いつもすごく楽しそうに演奏し、歌うパタゴニアン・オーケストラ。でも彼らだってわたしたちだって、そりゃあ生きてれば色々あるでしょう?  毎日が楽しくて楽しくてしかたがないならいうことないけど、毎日が楽しくて楽しくてしかたがない人は、歌を歌うだろうか? 歌を聴くだろうか?

ぼくを乗せたバスが南へと走ってる
見慣れたはずの景色も忘れてしまいそうになる

笑い声やきみの好きな歌も
今ははるか雲の向こう側

「ぼく」は「きみ」や他の仲間やなんかと、楽しい週末でも過ごした帰りかなんか。楽しかった時間のあとのひとりの時間。「さみしい」ともとれる見慣れたなんでもない景色。そういうさみしさはでも、誰でも感じることだから、あえて大げさには語られない。あるいは「今ははるか雲の向こう側」なんて、いかにもありきたりに歌われる。そしてこのコーラス。

また雨が降り出しそうだから
傘をさして歩いていきましょう

また雨が降り出しそうだから
傘をさして歩いていきましょう

雲が晴れて光が差したら
またいつかどこかで会えるでしょう

 傘をさして歩くのってどんな感じだっけ?
 雲が晴れて光が差したときの感じは?
 別れぎわに、次に会えるのはいつだろう、って考えてるときは?
 いまはみんな、TwitterでもFacebookでもLINEでも、見たもの思ったことをその場でことばにする。思ったままをことばにする。でもそれって、本当にそのときその場で思ったこと?
 本当に辛いことや悲しいこと、本当に楽しいことや嬉しいことが起こったときって、
「これを表現することばなんてない」
 って、誰だって思うでしょう。

「表現しようがないことに誠実であること」

 表現することにとってももっとも大切なそのことを、目の前のあたりまえのことをあたりまえに、難しいことばなんてひとつも使わずに、歌っている歌だから、わたしはわたしが唯一表現できること、小説をまた書きたいと思いました。
 雨なんて好きじゃないけど、ただ傘を差して歩くこと、そのことを思い浮かべることが、小さな小さな歓びか哀しみか嬉しさか何かわからないけど、でも毎日まいにちのわたしたちにじつは必要な「何か」だっていうことを気づかせてくれる歌。
 ガラスのタッチパネルをなでる指を、少しのあいだ止めて聴きたいと思う。

注)歌詞はわたしの聴き書きなので一部間違っているかもしれません。