彼女の想いで…

 これでその人の日記を引用するのは二度目なのですが、mixiにある友人の日記がとてもよくて、本人の許可を得て転載します。「サブカルチャー」ということばの定義は作品について、作り手の想いより受け手の捉え方にフォーカスすること、ということなのですが(といってもぼくがそう思っているだけなのですが)、彼女のようなことばが存在するのなら、サブカルチャーも捨てたもんじゃないな、と思います。

「圏外を歩くように」

 テレビのザ・イロモネア鳥居みゆきをみていて、ネタをやる直前、足元にほうり出されたぬいぐみに一瞬、カメラがフォーカスしたのにちょっと感動しました。さっき映画館で、遅ればせながら新劇場版エヴァ・破をみたからかもしれない。みながらわたしは映画とは別のことをけっこうかんがえていたし(これをみたからかんがえていたこともあるし、ぜんぜん関係なくいまわたしがかかえている問題についてかんがえていたこともある)、手ばなしで「好き」とおもえるものではなかったけれど、みたあとにだれかと感想を話しあいたいとおもわなかったし、なんともいえない気もちでショッピング・センターの階下のフロアーをわけもなくうろついたし、外に出ると街灯がかがやいてみえたし、なにより「鳥居みゆきのぬいぐるみ」をいまこのようにしてみることができたのだからみてよかった。14年まえにみた旧作とおなじ構造の話と場面(画)がことなる物語によって語りなおされているこの「破」は、聖書でいえば、旧作とはべつの「福音書」を読んでいるような気分になった。「わたしはいまのこのままでよいはずがない」ともおもった。14歳の彼・彼女たちは、なんでこんなおもいまでしてこんなことをしなければいけないの? とおもってちょっと泣いた。ひとりでみたので、みおわってだれかと感想を言いあわなくてよかったのでよかった。わたしはあれが好きじゃない。だれかとみに行っても、たまにそういう呼吸が合うような人もいて、そういう人とおたがいあいまいな表情のまま顔をみあわせて、なんにも喋らずにエレベーターやエスカレーターに乗って映画館をあとにするときのあの感じ、あの時間は、この世でもっとも幸福な時間のひとつだとおもう。今回の劇場版のいいところは動きのおもしろさで、14年前にはじめてみた「エヴァ」は特別静かなテレビ版第3話「鳴らない、電話」だったから、その違いについてかんがえています。わたしは皇室に対する確固としたかんがえというのは持ちあわせていないけれど、いまちらっとテレビで流れた、天皇の即位20年に際しての皇后のことばには強く心を動かされた。いわく、「高齢化、少子化医師不足も近年大きな問題として取り上げられており、いずれも深く案じられますが、高齢化が常に「問題」としてのみ取り扱われることは少し残念に思います」。家に帰るとこのようにテレビばかりみています。映画館で映画をみるのは好きなのですが、いまだに映画をみることに慣れていないとおもいます。いくつになっても、いい映画をみると心が浮わついてしまう。というか、身体が浮わいている感じ。それと、行動をうながされる感じ。でもそういう短期的な高揚=効用はすぐに去ってしまうから、そういうまやかしに惑わされてはいけない。たいせつなのは、「わたしはいまのこのままでよいはずがない」とおもった事実であり、それに自分がどう応えるかで、いい映画はわたしにそれを試している。わたしが直接知りあった男性のなかでもっとも好きな人のひとりであるMさんは雑誌の編集者で、どんなに扇情的な文句を求められても、見出しやタイトルに戦争や戦場をおもわせる単語を使わないといっていた。「〜最前線」とか「〜の最終兵器」とか「マシンガン何々」とか。その人は若いころ、カミュの「異邦人」にあこがれて港で働いていたような人で、「異邦人」のムルソーが「太陽が眩しかったから」殺人を犯したのとおなじとはおもわないけれど、ときどきわけもない暴力衝動にかられて、わけもなくケンカをしたくなるといっていた。わたしはMさんのふだんのひょうひょうとしたたたずまいと皮パンの似あうすらっとした物腰と、「異邦人」のことと暴力衝動の話、戦争の比喩を使わない、という話がとても好きだった。エヴァ新約聖書福音書のようなものだとすれば、かつてわたしがテレビシリーズのときそうしたように、今回の新劇場版も何度もみるのがよいのだろうけれど、今回はそうしないような気がしてならない。わたしはこの繰り返している毎日や、繰り返してきた後悔や、悲しみ、もちろん喜びも、まったくおなじものとして再現できないことは知っているから(14年前とまったくおなじにみえる場面は、おなじ絵を使っているのだろうか。それとも描きなおしたのだろうか)。